プロフィール
ずっと、書こうと思っていた私のプロフィール
題して
「家賃15,000円から1日で7桁を稼ぐまで完全公開」
私19歳、毒親と喧嘩し
家を出ていくように言われ
一人暮らしを始めました。
とはいえ、手取り12,3万円で
田舎なので車も所有。
家賃はとにかく安い所を探し
大学生向けに貸していたボロアパートを発見!
かび臭い、木製のボロアパート。
しかも、お風呂に入ってる間に
下着ドロボーに入られました!!
在宅中に部屋の奥まで侵入され、
しかも全裸をじっと見られて
逃げられたんですよ!!
恐怖!!!!
そして、忙しいながらも自炊して
お弁当を持参して
頑張って生活していましたが
毎月給料日前には、口座の中どころか財布の中も空っぽ。
自炊をするより安い弁当を買う方が節約になると
気づき始めたころの給料日前日。
たった、400円程度のお弁当を買う
お金もなくて泣きました
その時の私と言えば
- 常にお金がなくて泣いている
- 新入社員が8年連続で全員退職している
超パワハラ、モラハラ会社に高卒で就職 - 同僚が精神的に追い詰められ自殺未遂
- 社長が常に後ろで監視し、
電話対応の一言一句までにネチネチ嫌味を言われる - 先輩に何か聞いても、
どうせ辞めるだろと教えてもらえない - 大学に通う楽しそうな同級生を見ては、親のせいでと恨みつらみ
- 父親がギャンブルで借金→生活保護
(高校生の時に離婚) - 母親はノイローゼ、私の人格否定しかしない
- 初めて出来た彼氏に、妹にしか思えないと振られるが
彼の新しい恋人の指輪を買うためにお金を貸す - その後は全く彼氏ができず
私は割と頭が良かったし(自分で言う?(笑))
それなりに頑張って生きてきたのに
なんで私が高卒で
こんなクソ会社に就職?
とずっと世間を恨んでいました。
私にこんな人生はふさわしくない。
このままでは一生惨めな人生で終わってしまう。
一人暮らしの間、毎日そう考えていました。
絶対に抜け出して
お金に困らない人生にするんだと
自分に誓いました。
今思えばいくつかの事が明確なきっかけとなり
- 資本主義社会の仕組みを理解した
- 潜在意識を知り様々なブロックを外した
- 心理学を学び資格まで取った
- ダイレクトレスポンスマーケティングのノウハウを学んだ
- お金について学び運用をするようになった
その結果
- 自分の貯めたお金だけで
アメリカのロサンゼルスに渡り
働きながら学校に通う - アメリカではデート三昧、
高級レストランにもしょっちゅう行けるように - 帰国後入社した会社では、
好きな時間に出社できる、
月収は手取り30万という要望を聞いてもらう - 2度のフランス出張を経験
- 大手企業や行政が参加するプロジェクトの事務局を務める
- 27歳で起業。
- たった1日で7桁の売上をだせるように
- 2年目で年商8桁
こんな私のはなし、何か参考になれば嬉しいです。
幼少期~小学生
私、1歳(長女)
まさかの双子の妹が産まれる!
そう、年子で双子の妹が産まれるという
1歳にして既に不遇な運命(笑)
だって、まだたった1歳で
親は双子に付きっきりですよ?
年子で1人の弟や妹が出来ただけでもヤキモチの対象になるのに
それが2倍!
そして、父は双子が出来てからなぜか逆に育児に全く協力しなくなったそうで
母のノイローゼ気味な性格はここから始まったのです。
更に、私と母の愛着形成失敗は間違いなくここからスタート。
元々、愛情表現がとても下手な母なのです。
常に「私は親に愛されていない」と感じる人生が始まりました。
母の名誉の為に書きますが
決してネグレクトという訳ではありませんでした。
まぁ今だと虐待と言われるレベルの暴力や暴言はあったけど
母なりに「ちゃんとした」生活を送るのに必死だったのだと今ならわかります。
その為に、私の気持ちとか愛情とか
もしくは彼女自身の人生とか
そんなものは後回しになってしまったのだと思います。
そして、私はというと地頭が良くて(ハイ自慢w)
- お遊戯会で披露する白雪姫の劇の全員分のセリフを
たった1日で覚えて帰ってくる - 一度(車でも)通った道は忘れない
- 絵本も読んだらすぐに暗記
- 過去の写真を見るとその日の
朝から晩までのエピソードを覚えていて語る
という子供でした
典型的なフォトグラフィックメモリーの持ち主ですね。
(この能力は今でも時折感じる事があります。)
そんな風だったので小学生までは100点満点が当たり前のタイプでした。
しかし、小学校4年生ごろから事態は一変していきます。
親の借金発覚~暗黒の中学校
田舎の普通のサラリーマンだった父ですが
パチンコにハマり、複数の金融機関から借金があることが発覚します。
発覚当初は母が貯金からなんとか返済を試みたようです。
しかし、父は借金した分を取り戻そうと更にパチンコにハマっていきます。
そして、借金を返す為に借金。完全に首が回らなくなってしまいます。
更に、営業職で比較的時間が自由に使えるのをいい事に
仕事の時間にもパチンコをしているのが会社に見つかりリストラされるという
最悪の結末を迎えました。
元々ノイローゼ気味の母が完全に鬱状態
更に思春期の私に八つ当たり。
母からは小さい頃からかわいい妹と比較されて
私の顔がブスであると言われてきました。
「産まなきゃよかった」とか、今思い出してもその時の感情が湧き上がってくるような
ひどい言葉を毎日投げかけれれていました。
(本人は全く記憶にないらしいです)
もちろん、そんな事を言われて育ったので自己肯定感は皆無です。
父に対しても「早く死ね。死んでくれた方が経済的にマシ」とか
そんな言葉が毎日飛び交う状態でした。
また、学校も中学校に上がると
小学生までの【優秀な子がクラスの代表】といった空気が一変。
【ヤンキー至上主義】の田舎あるある中学校に入学。
私のようなタイプはいじめの対象となり
学校にも家にも居場所がない状態が続きます。
そして、毎日本気で自殺することを考えていました。
もちろん、消えて楽になりたいという気持ちもあったけど
それ以上に、だれかに自分の存在がここにあったことに
気が付いてほしいと思っていました。
死ねば私がここにいたこと、そしてひどく扱ったことを
後悔してくれるだろうと思ったのです。
実際に包丁を手に取った日もありました。
でも死ねない。やっぱり死ぬ前にやりたい事がある。
死ぬ前に世界を見てみたい。
アメリカに住んでみたいと思ったのです。
そして、友達のいない私は
読書にハマっていきます。
愛読書は太宰治の人間失格。
彼があまりにも半端な人間なのにナルシストでくだらなくて
私、この人よりマシだわと思えたのでした。
読書をするようになると
現実逃避が上手になって物語の世界に没頭するようになります。
転機の高校生活~就職
高校はもともとパソコンに興味があったし
親から大学には行かせられないと言われたことで
商業高校を選択しました。
これが功を奏したのです。
商業高校はほとんどの人が大学に進む時代の中で
就職を目指す訳アリの人が集まる場所でした。
そして、割と優秀な学校だったので
頭はいいけど、家庭の事情で…
という人が多くいました。
周りには、私以上に大変な家庭もあって
朝ごはん、お弁当、夜ごはん
家族や兄弟の分まで作って来ている子が複数いました。
そうしながらも、テスト勉強もぬかりなくやる。
しかも泣き言もいわない。
そんな頑張り屋さんとたくさん出会えたのです。
私は自分の環境に悲観して常に被害者意識があったけど
私だけじゃない。
受け取り方で真実は変わる。
更に、どんな真実があっても自分の行動は自分で決められると
たくさんの友人から学んだのでした。
3年生では生徒会長を務めました。
その高校は学校行事のすべての
企画書を書くところから会議、準備、当日の運営
一連の流れを生徒会が仕切るというありがたい環境でした。
商業高校ということもあり
ビジネスでも実際に使えるマナーや書類の作り方を実践で学ばせてもらい
この時にビジネスの一般常識を身につけていきました。
更に、情報処理の国家資格も取得しました。
ちなみに、家庭内別居を続けていた両親は高校2年生の時に正式に離婚し
母についていった私たちは一軒家からボロアパートへ引っ越しました。
ブラック企業へ就職~家賃1万5千円の一人暮らし
高卒でできる就職先はとても限られていました。
高校に来た求人の中でプログラマーを募集している企業が!
しかし、備考欄に「男子希望」と記載されていました。
その差別的な一文が私を更にやる気にさせ
私を採用してよかったと思わせてやるわい!!と面接を受けに行きました。
私以外の高校からは全て男の子が来ていました。
1人のみの採用でしたが私が選ばれたのです!
今まで、厳しい母親の元育てられてきて
これで無事に社会人。
大学に行けなかったことは不服だけど
しっかり稼いで技術を身につけて自由の身になるぞと
当初は前向きに考えていました。
ところがどうでしょう
入った会社のパワハラ、モラハラの嵐!
まず、会社が節約の為電気をほぼ付けておらず薄暗い。
古い建物のボロボロの社内。
温かみはなくいつもなんかひんやりしている。
プログラマーとして就職したのに
2ヶ月くらい毎日ただマナー本を読まされ感想を長文で書かされる
そして、私の考えが間違っていると
社長から人格否定されるお返事が返ってくる。
その他は電話番とお茶くみ。
私、自分もお茶好きなのでめちゃくちゃお茶を淹れるの上手いんですが
毎日まずいと文句を言われる
(社長、舌くさってたんじゃね?)
後ろから常に監視されて
電話の一言一句に対してその言葉は違うなどネチネチ言われ
電話を取るのも手が震えるように。
髪染め禁止、ネイル禁止。制服支給。
「個性は殺せ」「ロボットのように働け」と言われていました。
やっとプログラマーらしい仕事が出来るようになったと思ったら
そんな会社にいるクソ社員なので
質問しても「どうせ辞めるだろ。教える意味ない」
となにも教えてもらえない。
後に知ったのですが
新卒で入社した社員が8年も連続で辞めていました。
それでも、今時の若い奴は…と自分たちの非は一切認めないクソ会社。
唯一優しくしてくれた指導係は
この会社で追い詰められてうつ病になり自殺未遂をしました。
(それでも代わりが居ないという理由で出勤させられてたけど…)
私も、出勤をしようと運転していると
無意識に涙が溢れるようになり
蕁麻疹がひどくでるようになりました。
さらに、実家から通っていたのですが
就職をしているのに
門限があり、守らないとうるさく言われ
安い給料から3万円家に入れていました。
家事なども強要されていて嫌気がさしていたし
厳しい親に仕事を辞めたいなんて言えないと分かっていたので
喧嘩をして「出ていけ!」と言われたのをきっかけに
本当に出ていくことにしました。
そして、お金がないなかで
とにかく格安なアパートを探し
1万5千円のアパートを見つけたのです!
出ていけ発言から1週間後には契約し出ていきました。
ちなみに、親は保証人にもなってくれず
別途保証会社に毎月支払いをすることになりますが…
1人暮らし~アパレル会社に転職
かび臭いボロアパートでしたが
うるさい親がいない生活は私にとってユートピアでした。
その頃、お気に入りの洋服屋さんで
憧れるお姉さんがいて
私が「仕事がきつくて…」という話をしたら
「え?そうなの?私は仕事、超楽しいよ!!」
と言われ、
この世に仕事が楽しいと思う人がいるんだと
本気で衝撃を受けました。
しかも、きれいな色の髪を巻き巻きして、キラキラのネイル
可愛いメイクに可愛いお洋服。
全てがその時の私と真逆で猛烈に羨ましくなりました。
そしたら、たまたまそのお店で販売員を一人募集することになったのです。
思い切って退職届を出し、面接をうけることにしました。
(もちろん、親には言わずに)
ちなみにクソ会社からは
最後の最後まで
「君みたいな人間はどうせどこに行っても務まらないよ」
というクソメッセージをもらいました。
アパレル会社が受かる前に退職しちゃったので
相当な掛けで、しかも倍率もすごかったらしいのですが無事に採用されました。
その会社では、厳しくも優しく寄り添ってくれる上司に恵まれて
なんといっても毎日キラキラの空間で
キラキラのかっこうで生活できてとても幸せでした。
ノルマもあったので「売る」ということを徹底的に学ばせてもらいました。
働く事の幸せや達成感を初めて味わう事ができました。
でも、お給料は安い。それでも前の会社よりは上がったんです。
ただ、ご存知の通りアパレル店員は
洋服やネイル、靴などシーズンごとにかなりの出費がかかり
手元にはほぼ残らないのが通常モード。
最初こそ、時間がない中でも自炊をしてお弁当も作っていましたが
それでも全くお金がたまらず
作る時間が無駄に思えて
お弁当を買うようにし始めた頃です。
上記にも記載した通り
給料日前日に口座にも財布にもお金が200円程度しか残っておらず
400円くらいのお弁当が買えなくて号泣しました。
啖呵を切って出た実家を頼るわけにもいかず
どうしてこんなに苦しい思いをしなければいけないんだろうと
ただただ惨めで一人で泣き続けました。
この時私19歳。ほとんどの友人が親のお金で大学に行き
楽しそうに遊んでいました。
それなのに、なんで私だけ?
そんな思いが募るばかりでした。
アメリカへの決意
そもそも、私はなんのために頑張っているんだろう
そう思い返した時に
そうだ、私はアメリカに行くために頑張っていたんだ。
ただ、今の生活では到底お金が貯まらない。
そんな中、色々と調べていると
安いお金で渡米してホストファミリーの家に住まわせてもらい
ベビーシッターとして働き
お給料ももらいながら学校にも通えるプログラムがある事を知ります。
そこからは、そのプログラムに参加する為に動き始めます。
まず1円もたまらない生活から脱却する為に
ちょうど地元の先輩に誘われた夜のお店でバイトを始めました。
昼はアパレル店員
夜はラウンジでバイト
更に休みの日にはそのプログラムに参加する為に保育経験が必要だったので
保育園に無給で働きに行く生活が始まりました。
準備の為の1年間はほとんど寝ない生活を送りました。
今思い返しても人生で一番頑張りました。
でも、夢の為だったので苦しくはなかった!
そして、予定していた1年後に無事にホストファミリーも決まり
ロサンゼルスに渡米します。
アメリカでの出会い
ホストファミリーはほとんどタイミングと運で決まります。
同じプログラムに参加していても
田舎の方に決まり、毎日ピザしか食卓に並ばず
夫婦仲が悪いお家に派遣されて日本に早々に帰国する子もいました。
しかし、私は本当に最高のホストファミリーと出会う事ができました!
そもそもロサンゼルスに行けたことがラッキー!
私の事を本当の家族だと思っているからねと
いつも言ってくれる心優しいファミリーだったのです。
更に、ホストパパが毎日シェフ並みの料理を作ってくれて
好きなだけお酒を飲ませてくれる生活(笑)
正直に言うと、実家よりもよほど居心地がいい生活でした。
そして、有名なクラシック作曲家の子孫だったので
なんと渡米から2ヶ月後に3週間ほど
オーストリアの別荘についていくことになりました。
プロの演奏家の音楽をその別荘で聞くことができ
たくさんのゲストに会う事ができました。
アジア人なんて全くいない場所で、
観光では絶対に味わえない生活をさせてもらいました。
おとぎ話の世界じゃなく
世の中にこういう人達がいるんだなと肌で感じる生活でした。
アメリカに戻ってからも毎日そう思いました。
私の母親は人からの目、世間体ばかりを気にして
常識という言葉を押し付ける人でした。
そして、あのブラック企業も…
人種のるつぼと言われるLAでは
常識って何だっけ?という生活。
いろんな国の色んな感覚があって
仕事中に大声で歌ってる人がいたり
行政の手続きをしに行っても
ペチャクチャ同僚とおしゃべりしながらダラダラ対応
ルールもあってないようなもので
警察官でさえも対応する人によって取り消したりする…
かと思えば、知らない人が突然話しかけてきたり
「素敵ね~」とか「君はきれいだね」とか
店員とか警備の人から
当たり前のように言われる。
本当に自由で、自己肯定感の高い国。
そういう生活が当たり前になると
誰かにイラついたりする方が馬鹿らしくなってきました。
ホームレスさえもビーチで楽しく踊っていたりする。
世界の中心にいるようなハリウッドスターにバッタリ会えちゃったりする。
そんな天と地がみれるような生活でした。
また、私の人生を大きく変えた彼と出会うことになります。
成功者との出会い
LAに渡りちょうど1年ほどしたときにアメリカ人の彼と付き合う事になります。
その時彼はすでにダイレクトレスポンスマーケティングを使った
プロダクトローンチで成功していました。
いわゆるコンテンツ販売ですね。
今でこそ日本でも主流になってきましたが、これは10年ほど前の話です。
彼は引きこもり、不登校生活から日本のアニメにハマり
日本語が話せるようになり
自分の経験を基に、「アニメで日本語を学ぶ」というコンセプトで
日本語を学べるコースを販売していました。
商業高校で表面的な事は学んでいたものの
実践的なマーケティングに全く接点がなかった私が
初めて触れた瞬間でした。
彼は家から一歩も出ずに自分の商品を作り
プロモーションをしてかなりの額を稼ぐ。
そんな姿を目の当たりにしていました。
その彼から基本的なマーケティングの教えを受けます。
更に、成功哲学を学び
自らも勧められた本を読むようになりました。
お金を稼ぐという事がノウハウだけでなく
エネルギーとつながっているという事も漠然と認識していきました。
毎日、瞑想をするようになり
フローティングの体験をしたりもしました。
このころから、引き寄せの法則も体現していくようになります。
「初美なら必ず経営者になれる!」
毎日そう言われていたので自分でも
確かにそうかもしれないと思うようになりました。
彼は私の一番最初の経営者としての
メンターだったと今でも思います。
また、金銭的に余裕がある彼だったので
アメリカではたくさんいい思いをさせてもらいました。
彼との別れ、2度目の絶望
彼とは結婚をする約束をしていました。
アメリカに残り続けたかった私は
それ以外にもビザを延長する対策を取っておけばよかったのですが
「結婚するのだから他の方法を考える必要はない」
と彼に言われて
その言葉を信じ込んでしまいました。
しかし、ビザが切れるころには
彼は遊び惚けすぎてせっかく成功した事業を台無しにしてしまい一文無しになり
浮気にDVにと最低の彼になっていきました。
結局結婚が叶う事もなく
また、私自身は残りたかったアメリカに残れず
泣く泣く帰国する事になります。
ビザが不要な3ヶ月は彼も一緒に日本で生活しましたが
その後、アメリカに戻った彼が帰ってくることはありませんでした。
毎日、毎日ただ泣いて過ごしました。
日本で暮らす事を考えていなかったので
彼を失うと共に、自分の人生も失った気持ちでした。
いつでもアメリカに戻れるようにと
比較的自由度の高い夜の仕事をまた始めました。
それでも結局彼が戻ってくる事はなく
時間が経つとともにアメリカへ戻る事はできないと受け入れていきました。
また、この時期に民間の心理カウンセラーの資格を取得しました。
自分の辛かった過去と向き合い、内観をし続けることで
インナーチャイルドを癒してあげる事ができました。
また、私には足りないものばかり…という思考を少しずつ変えて
- 全部持ってなくてもいい
- ダメな自分もかわいい
- 不完全な私が美しい
と受け入れていけるようになりました。
日本で働く決意
夜の派遣のバイトはしばらく続けていました。
それまで、色んな事があり落ち込んでいて精神不安定だったし
正直短い時間である程度稼げて、
面倒なお付き合いは不要な派遣の夜のバイトは気が楽でした。
※仲介会社を通してラウンジなどに派遣され、日給がもらえるバイトがあるのです。派遣だと出勤日も完全に自由、送迎付き、ヘアセットや衣装貸し出しがあり
ノルマや同伴、アフター業務が全くなく指定された時間のみお店にいればいいというもの
ただ、プライベートでも今の夫と出会い
精神的に落ち着いて来て、自分らしさを取り戻していく中で
ちゃんと地に足をつけて働いていきたいと思うようになりました。
そこで、私の才能に興味を持ってくれる人が現れます。
- プログラマーでシステムの設計、開発ができる
- 英語がある程度は話せる
- 社交性がある
ちょうど、そういう人材を求めていたという会社役員の方から
ヘッドハンティングされることになります。
しかし、現状の心地よさから抜け出せなかった私はお断りされる前提で
- 出勤時間は私の自由にさせてください。お昼に出勤しても文句言わないで
- 月給が手取りで30万円以上になるようにしてください
と、あり得ないワガママを言ってみました(笑)
しかし、そのなんとその条件を飲んでくれて入社することになりました。
これって既にお金のブロックがめちゃくちゃ外れていますよね!(笑)
私にはそのお金を受け取る価値がある!と思っていたんですから
その会社は土木系の会社で今までの自分の人生では想像できない業界でした。
老舗の会社でありながら、新しい事にチャレンジし続けていて
今でいうDX化もその会社の目標でした。
そこで、私が社内システムを構築することになったのです。
プログラマーをしていた時から大分ブランクがあったので
本当に構築できるのかと不安はありました。
今考えたら、要件定義フェーズから開発、導入、サポートまでを
たった一人で担うという超無謀な仕事をしていました。
また、同時に役員の秘書業務
海外出張でのスケジュールのコーディネートや通訳業務
行政や大手企業が関わる大きなプロジェクトの事務局業務もこなしていました。
とても景気がいい会社でおいしいご飯にもたくさん連れて行ってもらったし
飲み会からの帰りのタクシー代も全て会社が負担してくれました。
絶対に個人ではできないような様々な経験をさせていただきました。
事業主としての成功
とはいえ、会社というのは万人が幸せになれる場所ではありませんよね。
必ず理不尽な事が起こったりする。
内部のごたつきに疲弊して不平不満が溜まってしまった私は
やっぱり、個人でやってみたいという思いが募ります。
この資本主義社会において
会社員はちょっといい奴隷
と言った人がいます。
正にその通りだと思うんです。
1人暮らし時代から
「学歴もコネもない私がこの社会のカーストで少しでも上にあがっていくには
どうしたらいいだろう」と常々考えていました。
大学で遊び惚けていた同級生に負けるわけにはいかない
私はあの時も必死に働いていたし
その後も自分でお金を貯めてアメリカに渡り頑張った。
色々あったけど、私ならこの人生をもっともっといいものにできるんじゃないか
そう思ったのです。
27歳の時に遂に起業します。
最初の半年くらいは本当に大変でした。
元々得意だったITスキルがあれば
なんだって出来ると思っていましたが
自分で集客するというのはそう簡単ではありませんよね。
様々な異業種交流会にとにかく顔を出し
名刺を配り
お誘いいただいたものにも全て飛んでいくようにしていました。
実はアメリカで彼と知り合ってから会社員になるまでの間ずっと
マーケティングの勉強はし続けていました。
マーケティング企業が提供している様々なコンテンツに目を通し
本もたくさん読みました。
それぞれのパーツに関する知識はたくさん貯めていたんですね。
ただ、この時はまだ体系化できていませんでした。
起業をしてからはコンサルについていただいたり
高額講座を受けてみたりして
ざっと計算しても500万円程度は自己投資をしました。
その中で今まで培った様々なスキルを体系化し
マーケティングの知識×IT技術を活かして
ダイレクトレスポンスマーケティングを使った
Webマーケターとして活躍することになりました。
起業してからしばらくは法人企業様や個人の方から
お仕事を依頼されて請け負うという形を取っていましたが
2年目には自分の講座を主催するようになります。
その結果
初めてのプロモーションでたった1日で240万円という
売上を立てることができました。
その後も順調に業績を伸ばし
起業から2年目で目標であった8桁の年商を達成しました。
その後、結婚、出産を経験し今はママ起業家として活動しています。
Webマーケターとしてお仕事を請け負ってお客様の売上を爆上げさせたり
- Webマーケティングを学びたい
- 自分のビジネスの売上を上げたい
という方に向けて講座を主催しています。
今では憧れの億女からもお仕事をいただけるようになりました。
これは他人事?
へぇ~でも、あなただからそんなに成功できたんでしょ?
って思いましたか?
いえ、絶対にそんなことはありません。
だって、よく思いだしてください
私、かなりの毒親育ち(ノイローゼ×借金まみれ)
そのせいで学歴なし
コネももちろんなし!ですよ?
自分で言うのもなんですが
自分の人生をよりよくしようと切り拓いてきたのは
紛れもなく私自身だったと思います。
最初から、何かを持っている人なんていないんです。
私はいつも、私にはもっといい人生がふさわしいはず!
と、信じて疑わなかったんです(笑)
そして、今でもそうです。
今、経済的にも恵まれ、私の事が大好きな神夫、更にかわいい子供がいて
十分幸せではありますが
もっともっとこんなだったらいいな~
いや、私ならそういう人生にできるはず!
と強欲に生きています。
だから、これを読んでるあなたも
もっともっと強欲になって自分が叶えたい人生を一緒に作っていきましょう!!
人生はいつだって自分の思い通りに
そんな私が主宰しているビジネス講座
ハイヤーセールスでは個別で手取り足取りサポートしています
具体的なノウハウをお伝えしたり
必要なテンプレートをそのままお渡ししたり
自分で出来ないところは請負もやっています。
ビジネス講座というより
プロデュース業と言った方がいいかもしれません
自分の人生を
- 時間がいっぱい
- お金がいっぱい
- 幸せいっぱい
にしたい方は一度ご連絡くださいね!